ボブ・ディランのノーベル賞受賞に思う

 もう数日前になるこのニュース、大騒ぎになっていますが、僕は歓迎しています。
 彼の書く詞は、単なる、決まり文句を繰り返す「歌詞」ではなく、質という意味でも量という意味でも完全に「詩」であり「文学」であると、これはずっと思ってきました。
 50年以上になる長い活動のなかで生まれた膨大な詩は、もはや簡単に俯瞰できるものではありません。例えて言うと「ベストアルバム1、2枚聴いて歌詞カードを読んだ程度ではまったくわからない」というもの。「罪と罰」のあらすじだけ読んでもドストエフスキーを理解することがまったく不可能ということと同じ意味で、です。
 僕は数年前にこのブログで「ディランの本当の評価は100年後の研究者にしかできない。同時代の僕達にできることはその奥深さに戦慄することだけ」と書きましたが(こちらの日記です)、受賞のニュースが流れてからの、世界中で語られる(混乱そのものといっていい)言葉を読むと(いや、もちろん全部読んだわけではないけれどね)、心からそう思います。
 ディランは長い活動歴のなかで、何回か大きくそのスタイル(音楽にせよ、発表のしかたにせよ)を大きく変えてきました。
「Jokerman」の歌詞にあるように「Shedding off one more layer of skin / Keeping one step ahead of the persecutor within」(今一度古い衣を脱ぎ捨て、内なる迫害者に一歩先んじる)という活動を。
 これは語るに易く行うに難いことです。ディランと同時代から(あるいは、その少し後から)活動している現役のアーチストのほとんどが、かつての名曲ヒット曲は「昔のとおり」に演奏しているわけですが、これは観客がそれを求めているからです。
ディランは、極端にいえば30年以上前からそうしたことはしてないのです。すでに70年代から、多くの名曲はアレンジを、歌いまわしを、いや、旋律や歌詞まで書き変えられてきました。僕は過去、時をおいて4回彼のコンサートを体験したことがありますが、1回たりとも「同じ曲を同じように演奏した」というものに接していません。
 きっと「風に吹かれて」や「ライク・ア・ローリング・ストーン」などを、昔のままに演奏したら、今でも武道館くらい満員にできるでしょう。でも彼はそんなことはしない。僕が観た直近2回のコンサートはどちらもライヴハウスで、何曲か名曲を演奏しましたが、どれもがアレンジを大きく変えていて、歌い始めを聴いてやっと曲名がわかるような感じでした。「風に吹かれて」を聴いたのも、過去4回で1回だけ(6年前のZEPP TOKYO)です。 それは、「常に現役」という形容を超えて「今この瞬間だけに存在する」天才としか言葉にできないようなものでした。ポピュラー・ミュージックの分野でこのような存在になれた人は彼以外にいません。
 今回の受賞で賛否がわかれ、多くのコメントが飛び交っています。でもディランはまったく意に介さないでしょう。少なくとも昨日の時点で「ノーベル賞の委員が本人と連絡がつかない」と報道されていることも含めて、彼の心は「結果」などにはないのだと思います。
 彼はどこにいる?彼は「今夜の舞台」にしかいないのです。人間としての彼ではなく、芸術家としての彼は。 世界はまたも、ボブ・ディランに揺さぶられた。長年のファンとして、僕は一種心地よくこの「騒動」を見つめています。
 100年後の研究者は、この10月をどんなふうに分析するんでしょうね、知ることができないのが残念です(笑)。

Fallen Angels

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