勝手にクロスレビュー ジミ・ヘンドリックス

 いつもコメントをくださっているcrayolaさんが、ジミ・ヘンドリックスの「Electeric Ladayland」のことをご自身のブログに書いていらっしゃいました。それに触発されて、僕も今日はジミのことを書いてみることにします。いつもながら事後承諾ですみませんcrayolaさん。
 ジミの音楽を聴いて思うのは、ジャンルを超える数少ない音楽、これにつきます。いや、これでは簡単すぎますが、端的にということで。今さら僕が書いても「当たり前だよ」ということなのですが、僕がすごい、さすがだと思うのは、彼の音楽の評価が、誰に強制されてでもなく、自然に、聴き手の手によって、今の地位に昇っていったように思われるところなのです。ちょっと主観がはいってしまいますが、ちょっとおつきあいください。
 僕がジミの存在を知ったときは、すでに彼の没後数年が経っていました。その当時、ジミに対する評価は確かに高くはありましたが、それは「元祖ハードロックギタリスト」というところに集中していて(そうじゃないよというあなた、僕の見聞きした範囲です、あしからず)、たくさんいるその手の音楽家のパイオニアという評価のされ方でした。clayolaさんが書かれているように「ジミヘンの後継者」「ジミヘンの生まれ変わり」みたいなコピーでいろいろなギタリストがデビューしていましたが、そのほとんどすべて、ジミの音楽ではなくスタイル、それも大音量のソロという、はなはだ一面的な部分にのみ影響を受けていたものでした。僕自身、それほど熱心なファンでもなかったので、ある意味でそれを信じていたところがありました。
 それが、本当にだんだん変わっていったのです。何度も聴くうちに、自分の中での位置づけが、「ステージでギターを燃やす元祖ハードロッカー」から「優れた音楽家」という具合に。これは、誰に強制されたわけでもなく、何かの権威ある言葉を聞いたわけでもなかったのに訪れた変化でした。たいていの音楽は、聴き続けることで耳になじむのですが、ジミの音楽はどんなに聴きこんでも「うん、わかった」という感じがせず、いつでも新鮮なのです。そして、ジャンル分けできない不思議なたたずまい。もちろん聴けば、ある曲がブルースを基調としている、サイケデリックな感じだ、もろハードロックだなあ、などはわかります。ですが、なぜかそう思っても、それですべて了解することのできない不思議な感覚があるのです。くどいですが、それは「曲の最初はブルース、途中はジャズっぽいアドリブ、で、ブルースなのかジャズなのか」なんて意味ではありません。例えばブルースを演奏しているはずなのに、ブルースからはみ出してしまうなにか、それが感じられるのです。前にも書きましたが、60年代後半から70年代にかけて「ジャンルを超えよう、既存の音楽から別の地平に向かおう」という音楽群がありました(僕はそう感じてます)。エレクトリック・マイルス、スライ、サンタナコルトレーンとそのフォロワーたち(クリームやツェッペリンも、スタイルとしてのブルースからの脱却を試みたという意味でこのひとつといえるかもしれません)。その中でジミは、黒人でロックを演奏するという場所から、人種もジャンルも超えた新しい音楽を鳴らしていたと思うのです。気がつくと、世の中の彼に対する評価も変わっていました。僕の気持ちもそれにシンクロしていたのかもしれませんが、強制や追従ではなく、自然な流れでそうなっていったのです。
 僕は今「Axis,Bold As Love」を聴いています。これは僕がウッドストック以外で初めて買ったジミのレコードです。これを聴いて「なんてすごいんだ」と思って、その後に「Electric Ladyland」を聴いたときの驚きは大変なものでした。「Bold As Love」だって相当高レベルなのに、さらにそれを超える作品を、その1年足らずの時間で作ってしまうなんて。どちらの作品も「ロックだからこう」「黒人の演奏だからこう」「時代的にこう」というような思いこみを嘲り笑うかのように自由で、真剣で、ユーモアにあふれ、エンターテインメントであります。
 ご存じのように彼の人生は短く、音楽活動はさらに短いものでした。彼があの時死ななかったら、どこまで音楽の領域を広げていたでしょう。どれだけ豊かな作品が産み出されたでしょうか。こんな想像、するだけむなしいものですが、残された傑作群は、想像せずにはいられないほどすばらしいものです。アクシス:ボールド・アズ・ラヴ