追悼 伊福部昭

 今日の新聞に、伊福部昭氏の訃報が載っていました。
 僕がこの人の音楽を聴いたのは、小学生の時にテレビで観た「ゴジラ」(一番最初のやつです念のため)でした。もちろんお目当ては大怪獣ゴジラだったんですけど、あの有名な主題曲は1回見ただけで憶えてしまいました。それくらい印象的でした。ただし、その頃は誰が作曲したかは知りませんでした。僕がそういうことに興味を持つのはずっと先です。
 伊福部氏の音楽は、有名なゴジラシリーズや「SF交響ファンタジー」「釈迦」など、ダイナミックで壮大な感じがしますが、良く聴くとどれも、他では得られない静けさを感じます。それは、例えばオーケストラが思いっきりブレストしているときにも感じます。緊張感が、単純な音量的なスケールではなく、音色、旋律、和声のすべてに行き渡っているからなのでしょう。
 伊福部氏の音楽について回る形容詞に「民族的」というものがあります。確かにその意味するところはその音楽を聴けば理解できます。しかし、それならば第二次大戦後の日本の作曲家の大半はその問題に取り組んだことになり、伊福部氏もそのワンノブということになってしまいます。
 僕が伊福部氏の音楽を聴くと思うのは、この人の音楽の持つ民族色・土着性ではなく、洗練された感触です。確かに題材として、いや失礼、モチーフや音楽の源泉として自分の「クニ」固有のものがあることは言うまでもないことです。でもそれだけじゃない。単にドメスティックなものを特殊化して形にするのではなく、それを、独自の美意識をもって突き詰めていった先にある、一種の「普遍」だと感じるのです(すみません、僕はここで外山雄三の「ラプソディ」あたりを思い出しながら書いています)。
 どこまでも自分の「クニ」に根深く表現の幹を養った伊福部氏は、しかし最後まで、安直な「日本的情緒」に堕することはありませんでした。あの豊かな響きも、あの緊張感も静けさも、本当の意味で「国境など超越した美」なんだと思います。
 今日は伊福部氏の歌曲集から「蒼鷺」「聖なる泉」「アイヌ叙事詩に依る対話体牧歌」あたりを流しています。こんなにずらずら書いていてなんですが、言葉はいりません。なによりも、音のひとつひとつ、歌声のひとことひとことがすべてを語っています。日本にこれほどの人がいて、そして(驚くべきことに)たくさんの人に愛されたということを誇らしく思います。伊福部先生、どうぞ安らかにおやすみください。

伊福部昭:全歌曲

伊福部昭:全歌曲