宮下誠著作の2冊の本を読む(後編)

(昨日の続きです)
※ 前日書き忘れていましたが、特殊な部分(ご本人への私的なコメント等)を除いては敬称略です。すみません、よろしくお願いします。
 「『クラシック』の終焉?」(以下「終焉?」)は、「20世紀音楽」(以下「20世紀」)と同じ、宮下誠氏による前作にあたる、「20世紀」(光文社刊)の続編的な著作ですが、出版社が違い(前書は法律文化社)、実は体裁も大きく違います。価格も含めて「終焉?」の方が立派な感じ(?)で、送られてきた実物を見てちょっとびっくりしてしまいました。昨日書いたように、僕のブログ記事が転載されているということで、「謹呈」という一文とともにいただいたものです。宮下先生ありがとうございました。
 内容は、「20世紀」発表後の(主にネット上での)評価を著者がどのように思ったかという記述から始まり、それらの反響に(著者が可能かつ妥当と思われる範囲で)応えるというものになっています。「応える」というのはまずひとつ、「こういう人、曲が取り上げられていない」という声に対して、改めて紹介をしているところ、もうひとつは、「自分(主に「20世紀」を題材に採り上げたブロガー等)はこう思うのだが」というところについて、すべてではないまでも著者の考えを明記しているというところです。
 こうして書いていると「ふむふむ」という感じですが、実際にネット上での評判というのは、その匿名性のせいか(僕も本名など個人に関わることは公開していませんからね)あんまり建設的な対話になることは期待できないのが普通なので、クリエーター(今回でいうと宮下氏)がそうした土俵に自ら上がってくるということ自体が稀で、今回宮下氏があえてそれをされたということは、ひとつの覚悟・見識として評価できることだと考えています。本書に掲載されたブログの記事を読む限り、ネット上で「20世紀」に言及した人たちはみな(たとえ批判的スタンスだったとしても)きちんと各々の立場を明確にして、礼儀をもって書かれているようです。それが宮下氏をして、このような本を書こうと思われた動機のひとつなんだとしたら、「20世紀」は、そういった建設的な言論を喚起するような空気を持ったご本だったということが言えるでしょう。少なくとも僕はそう思います。
 さて、「終焉?」の前半は、そのようにネット上での「20世紀」について語られたことの紹介と、それについての著者のコメントが続きます。僕のブログ記事もここにあるんですが、ひとつ非常にお恥ずかしいことを白状しなければなりません。僕以外の方のブログ記事は、いずれもいわゆる「現代音楽」に精通されている方ばかりで、本の批評にせよ賞賛にせよ、とてもレベルの高いものになっています。僕のものが一番レベル低いです(ほんとに)。「『20世紀音楽』なんて書名で、大衆音楽が全然ないなんて」とか「(クラシックの聴き手としての)外の尺度でロックを語られるのはもうたくさん」とか、「お前が言うか?」みたいな失礼な物言いばかりです。「終焉?」で、他ブロガーさんたちのとても質の高い文章を読んで、赤面というか、実は場違いは自分だったということに気づいてしまいました。宮下氏はそんな僕にも余裕を持ったコメントを書いてくださっていて、「終焉?」では(僕の文章に触発されたというわけではないでしょうが)一部ポピュラー音楽の領域にも足を踏み入れています。
 この「第1章 電脳空間との対話」は、そのようにブログを問いかけと位置づけ、著者のコメントという形でダイアローグを成立させています。しかもそれは、次に続く「著者コメントに対する言論の出現」を期待するという立場に立たれており、著者はそれが連鎖する事を望まれています。これは(著作物に対するネット上での声というのは質量ともに予想不可能ですから)ある意味で画期的なことでしょう。ここで重要だと僕が考えるのは、この連鎖の中では、例えば採り上げられた作品や作曲家に対してどのような評価をしているか、どのような理由で受け入れているか(拒否しているか)を明確にし合いながらでないと対話が成立しないということで、これを宮下氏は、ご自分がルールブックになるのではなく、そこも含めてこれから創っていこうという感じで言及していません。これもたぶんあまり例のないことではないでしょうか?なかなか誰にでもできることではないと思います。
 第1章以外の部分は、基本的には「20世紀」と同じように、作曲家とその作品を説明していくスタイルが貫かれています。ここについては、僕は批評論評するほどの蓄積を持っていません。昨日の前編に書いたように、ここで読んで興味を持ったものについて聴くようにする、一種の「バイヤーズ・ガイド」的な読み方もできますし、もう持っている(既知の)作品や作者についての知識を増やし、一定の文脈に即して理解していくための案内役としても役に立つと思います。「20世紀」と同じ書き方ということで、前編に書いた引っかかりはそのままですが。
 そう、僕がこの2冊で最も強く感じ、「学んだ」ということは、「文脈を理解せよ」という、どの分野の芸術を愛するにも通用するような単純で美しい方法が、20世紀音楽にもちゃんと通用するのだということです。考えてみれば当たり前ですが、勉強させてもらいました。それから、自分は「現代音楽」の何を聴いているのかなと自問したところ、出てきた答えは「響き」でした。大規模なオーケストラの悲鳴も、プリペアド・ピアノの演奏も、不協和音やテープエコーも、僕は「旋律」というよりも「ハーモニー」として受け入れ、楽しんでいるようです。これはこの2冊を読みながら音楽を聴く事で判明したことです。
 僕の守備範囲であるポピュラーミュージックに関する部分(第3章の5と6)について少し。著者はもちろんポピュラーミュージックを毎日、1日の大部分を使って聴く事はできないでしょう。そういう前提で考えると、採り上げられているロック寄りのアーチストはそれなりに「選ばれた」ものとして大ハズシではないと考えます。ただ、その選択されたアーチストとアーチストの間には、たくさんのアーチストが存在しているわけで、それらの「選ばなかった」才能に精通(少なくとも通して聴いたという事実)しているかどうかで、選んだアーチストの価値がわかるという意味で、やはりこのジャンルも「文脈」抜きには考えられないと思います。そう考えると、今回の「第3章6クラシックの彼方へ」は、これだけでは足りてはいないといえるとでしょう。「もっとたくさん紹介しろ」という意味ではなく、ここに至る道のりを読みたかったということです。アーチスト単位で紹介する事が多い本の中で、「No New York」がアルバム単位で登場していますが、これなど「文脈」抜きには理解できないものの最たるものでしょう。僕はジャズは詳しくないですが、MJQやエヴァンスまで取り上げているのにデューク・エリントンやマイルスが登場しないのはちょっと「?」です。テオ・マセロまでいるのに。意識的なのかも知れませんし好みかも知れませんが、ブルースを基調とした音楽への言及があまりないのは、とくに現代に繋がるポップス(ロックやR&Bまでも含めた)への言及としてはちょっと惜しいかなと思います。
 著者は「おわりに」で「(ブロガーによる「20世紀」への批評などの)時に厳しく時に優しい言葉がなければ本書は絶対生まれなかった。皆さんの唆しに筆者はまんまと引っかかった。」「(読者に対して)この本の「筆者」は実は皆さんである。(中略)その意味では本書は完全に「開かれ」ている」と書かれています。僕もふとした機会からこの「開かれ」た流れの中に入ることができました。現代音楽(著者のいう「20世紀音楽」)を聴く事は楽しい。僕はそこからスタートできました。宮下氏にも、未知の分野で新しい喜びが得られますように。そしてより深く広い「20世紀音楽体験」ができますように。僕でよければいつでも協力しますよ。ちょっと説明が独特でくどいですが(笑)