アメリカ音楽の旅 ラグタイムの上品さ

 この土日、南関東はとても暖かかったです。日差しもすっかり春のもので、はっきり季節が変わったことがわかるような2日間でした。この2日間は予定を入れず、買い物や散歩に行った以外はのんびり過ごせました。おかげで少し体調も持ち直してきたようです(腰痛も咳もまだ残っていますが)。
 今部屋では、ラグタイム・ピアノを流しています。スコット・ジョプリンの作品集、演奏はジョシュア・リフキン。ルネサンスバロック期の音楽の研究で有名な人だそうで(僕はちゃんと知りませんでしたが)、ラグタイムの研究者としても第一人者らしく、このアルバム(70年代の録音)はラグタイム再発見・再評価のきっかけになったものだそうです。
 さて、今年になってから(遅々としたものですが)ずっとやっている「アメリカ音楽の探究」ですが、テキストとして使用している「アメリカ音楽の誕生」(奥田恵二著 河出書房新社刊)での「ラグタイム」の項は、短いながら非常に示唆に富んでいます。ジョプリンを取り上げての説明となっていますが、そこではラグタイムに対するいくぶん俗な先入観を戒め(「安酒場の調律の狂ったピアノによりガチャガチャとやたらに早いテンポで弾かれる音楽だが、実際にジョプリンが理想にしたラグは、そうではなかった」)、ジョプリン自身の教則本にある注意書き「スウィング感覚を掴むまでゆっくりと演奏せよ。ラグタイムは決して早く演奏してはならない」を引用し、アフリカ系アメリカ人らしい躍動感を基調としながらも、きちんとした形式を持った音楽としてのラグタイムの質の高さを評価しています。
 今聴いているリフキンのCDは数年前に購入したものですが、これを聴いて一番驚いたのは、「とても上品な曲想、演奏だ」ということでした。それまでラグタイムといえば映画「スティング」のサントラなどの、上に引用した書籍で言われているような「酒場系」のイメージが強かったので、このCDで聴くことのできるようなタイプのラグは、最初とても驚きました。変な物言いですが「ラグタイムらしくない」という感じ。でもこれを繰り返し聴いていると、実はこうした演奏によって、ジョプリンの作品が本来持っている上品さ、形式感の確かさ(いくぶん単調ではありますが)がよくわかります。
 さすがに僕も、本来ラグタイムがアドリブを交えず、楽譜どおり演奏することを前提としていたことくらいは知っていましたが、このCDで聴けるような、どこかのホールで録音したと思しきクラシック的な残響と、ゆっくり、しっとりと演奏した曲を聴いていると、知っていた以上の説得力を持って迫ってくるのがわかります。上記の書籍は、ラグタイムの前後にブルース、ジャズなどを配置し、論考を繰り広げていますが、それらがラグタイムよりもずっとアフリカ系アメリカ人の社会的境遇や地理的条件に依拠したものであるのに対して、ラグタイムは、上に書いたような「確かな形式感」「楽譜を前提とする音楽」という部分において、他2者よりもずっとずっと「ヨーロッパ的・クラシック的」だといえると思います。
 さっき僕は、ラグタイム(僕の場合は、ジョプリンの作品とイコールと言っていいです)の形式感を「いくぶん単調」と書きました。これは素直な感想ですが、聴いていて「飽きる」ということもありません。矛盾するようですが、本音です。これがラグタイムすべてに通じるものなのか、ジョプリンの作品だからそう感じるのかは、これからいろいろ聴くことで明らかになると思いますが、ひとまず今こうして部屋に流れている音楽には、得も言われぬ上品さと、他のクラシック作品にはない「弾む感じ」が同居しています。
 明日は月曜日。年度末ということで、僕も忙しくなってきます。先週も先々週も体調を崩して休んだりしているので、今週は定時に帰れない日が多くなりそうです。今こうして聴くジョプリンの作品にある、品のいいスィング感と、さりげない哀感が、日曜の夜に広がっていきます。
来週は、体を壊さず仕事ができますように。おやすみなさい。 

ジ・エンターテイナー?ジョプリン / ピアノ・ラグ集

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