小ネタのつもりが長文に。カラヤン生誕100年

 昨日、4月5日はあのカラヤンの誕生日でした。しかも今年は記念すべき生誕100年なので、テレビで特集番組(BSハイビジョンなど)も組まれていました。今年に入ってからCDショップのクラシックコーナーでもカラヤンものは大々的にプッシュされていて、実に華やかです。クラシックというと、曲はともかく演奏家で「華がある」人はそんなにいないので(一部の女性ソリスト、若手除く)、よけいにカラヤンが際だっていますね。もちろんどんなジャンルだろうと、一番肝心なのは作品そのものですが、フォトジェニックなところも含めた「スターらしさ」という意味では、あの人はダントツです。
 僕がクラシックを聴きだした70年代半ば過ぎ、カラヤンはすでに大スターで、初心者だった僕ももちろんですが、あんまりクラシックに詳しくない僕の両親のような人間さえその名を知っていました。ある意味で、クラシックというジャンルの「顔」だったのではないかと思っています。じゃあ僕はいつもカラヤンのレコードばかり買っていたのか?というと実はそうでもない。当時カラヤンドイツ・グラモフォンからレコードを出していて、それは廉価盤がなかったので、高くて買えなかったという事情が大きかった(笑)。でもそれだけじゃなかったです。ひとつは「カラヤンは意外にけなされることが多かった」ということ。もちろんほとんどが絶賛でしたけれど、クラシックファンには、「カラヤン嫌い」の人がけっこう多く「カラヤンなんてダメだよ」とアドバイスされることが多かったです。一般的に人気者だったせいかも知れません。
 もうひとつの理由は、実際に僕が聴いた経験からです。中学2年生のときに学校の授業で「田園」を鑑賞したのですが、それがどうもよくない印象だったんです。その授業を受ける前、僕はすでにベーム指揮ウィーンフィルの「田園」をレコードで持っていて、それに親しんでいたんですが、学校で聴いたカラヤンのものは、テンポも含めてどうにも違和感があり、好きになれなれませんでした。クラシック聴きだしたばかりの中学生ですから、詳細に聴き比べたわけでもなかったんですが、そうした数少ない体験と人から聞いた評価で(ついでに、雑誌などで読むゴシップめいた話などで)、カラヤンをなめていたようです。通ぶった初心者によくある話ですね(笑)。僕の場合は根っからのクラシックファンではなく、主戦場はロックだったせいもあり、この偏見は長く続きました。
 今改めてカラヤンを聴いて、目から鱗が落ちるようにその魅力に目覚めたかというと、それもちょっと違います。相変わらず曲によって好き嫌いははっきりしてしまうし(この人のモーツァルト以前のものはどうも好きになれません。悪い演奏でないことくらいはわかりますが)、いつもいつも聴いていたいというような感じでは自分の中に入ってはきません。ではどこに惹かれるのかというと、とてもありきたりの答えですが、その徹底した美意識です。ベルリンフィルを一つの楽器にしてしまったかのような隙のないアンサンブルは、好き嫌いとは違う次元で迫ってきます。主観的な考えですが、この人の演奏は、やっぱりロマン派以後(ぎりぎりでベートーヴェン以後)のものに名演が多いと思います。オケの編成も大きくなり、曲も大規模にになり、なによりも作る側の自我が大きくなっていった時代の音楽に、この人の美意識はぴったり合うと思います。だからオペラ作品などもいいなあと思います(いくつも聴いていませんが、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」が予想外によくてビックリしたこともありました)。ピリオド楽器などがひとつの思潮として定着し、曲解釈も「次の時代」になった現在にあっては、どうしても「ひとつ前の時代」らしい演奏ですが、それでも(というか、だからこそ)あの「もろロマン派的巨大さ」は、生前語られることの多かった「権力欲」「帝王」というタームだけでは分析しきれない、一流の演奏だと思います。白状しますが、様々な指揮者・オケ・時代で合計すると20枚近い「第九」のレコード(アナログとCD両方で)の中で最もよく聴くのは、カラヤンが70年代中半にベルリンフィルと録音したものです。これはもう、僕にとっては最高の名演です。バイロイトフルトヴェングラーベームトスカニーニワルターも小澤も朝比奈もかないません(敬称略)。
 今これを書きながら、チャイコフスキーのバレエ曲を聴いています。散文的な曲解釈ではなく、華麗さと響きの美しさですべてを埋め尽くしたような演奏で、ともかく「聴いて酔いしれる」というのがぴったりのものです。きっと今年いっぱい(来年は没後20年なので来年もか)カラヤンはプッシュされ続けるでしょう。僕も少し襟を正して聴き直してみたいと思います。きっと新しい発見があると思っています。