取り急ぎ、書きました。

 本当をいうと今日は「ポールの新しい恋人の話題」を取り上げて、その流れでリンダについて書こうと思ってたんですが。ちょっと話題を変えます。
 5月6日付朝日新聞の一面にこんな記事が掲載されていました(こちらをクリックしてください)。内容は、以前から話題になっていた「携帯音楽プレーヤーに著作権料(私的録音録画補償金、今あるレコーダー類やカセットやMDなどのメディアにはすでに課金されている)を上乗せする制度改正を行う予定」というもの。詳細は省きますが、上乗せしたい著作権団体と消極的な機器メーカーで論議が重ねられていたんですが、それが「課金する」という方向で決まりそうだと(というふうに読める記事です)。これ自体は(その論議の内容も含めてユーザーにとっては不愉快ですが)、まあ想定内の結論でもあります。僕はもちろん反対ですが。
 ところがこの記事には後半、不思議なことが書いてあります。以下、引用します。
 
著作権団体の「秘策」は、6月2日から導入する方針の「ダビング10」の拒否だ。デジタル放送のテレビ番組を自宅のハードディスク内蔵型レコーダーなどに録画した後、DVDなどに9回複製できる新しい方式だ。著作権団体は導入の条件として補償金の賦課などを求めてきた。補償金を課せないなら、新方式に同意できないという考えで、ニーズの高まる北京五輪までにメーカー側が受け入れを決断する、というシナリオに期待している。」
 
 これはどういうことでしょうか?例の「コピーワンス」が、著作権ビジネスの成熟したアメリカなどでさえ導入されていない「ユーザーに一方的な負担を強いる」もので、どのように緩和するのかを論議した(総務省情報通信審議会で、権利者、メーカー、利用者団体をテーブルにつけて)結果、第4次答申でともかくの合意に達したものがいわゆる「ダビング10」であったはず。それを「課金が認められないならこれも反故にする」というのは、普通ならばまったく理由として成立しないものです。しかも「ダビング10」は、ユーザーにとって不便な「コピーワンス」をユーザー側に有利なように改変し、それによってHDDレコーダー機器類の販促も図り、アナログ放送終了に向けてのインフラ整備に弾みをつけるという意図があったはずです。
 しかもこの「ダビング10」、今年の6月に実施される予定だったものが、何故か今に至るまで実施の決定がなされず、事実上予定どおりの運用開始は不可能になっているものなのです。聞くところによると、著作権者団体は、もともとコピーワンスの緩和については消極的で、緩和するのならiPodなどのプレーヤーや「ダビング10」以後のHDDにも補償金を課金したいという意向があったようです。で、6月の実施もそのあたりがネックになって実現しなかったと。もしそれが事実だとすると、今回の記事の「秘策」という表現はまったく事実に反しているだけでなく、まるで「これは正しいやり方です」とでも言っているようです。もしも権利者団体が最初からこのように条件化することも想定して、いったん「合意」したのだとしたら、これを「ユーザー不在の決定」といわずしてなんというのかわかりません。
 僕は本来、著作権は守られるべきだと考える者です。僕はそれなりに本やCDなどを購入しますが、払った金から作者や権利者がそれに相応しい金額を受け取るのにはまったく問題ないと思っています。問題は(とある大きな権利者団体の)分配の方法や、巷間言われる強引で個別事情を考慮しない徴収であり、それが結局は、ユーザーを「物言わぬ金づる」としか見ていないのではないかと思われるところです(国会議員へのロビー活動などの噂もよく聞きますね)。
 今回のこの記事が、結果的にどのように転ぶのかはまだ不明ですが、こうした流れが長い目で見ればユーザー離れを起こすということ、放送局、メーカー、権利者ともに「金を払う側」からの信頼を失うということがどうして理解できないかが不思議です。テレビは誰でも観る・音楽は誰でも聴くとみんな思っているようですが、世の中には音楽を聴かない人間はたくさんいて、テレビを観ない人間も少なくないでしょう(僕自身、特に地上波の番組はほとんど見ません)。地上波の局は現在、収入源である広告がインターネット市場に奪われており、音楽コンテンツ産業はご存じのとおり、CDの売り上げの減少とネット配信の興隆でいろいろ問題を抱えています(日本の場合「着メロ」があるので、CD売り上げ減少のみ取り上げると議論がずれてしまいますが)。そうした中で、一方の権利だけを過大に尊重することは、問題の本質を見誤らせるだけではありません。もう一方の権利を顧みないのであれば、それは最終的にはコンテンツ産業そのものの衰退に繋がると思います。そのようなことは誰も望んでいないと、僕は(ちゃんと正規に購入した本とCDに埋もれながら)信じていますが。