追悼 赤塚不二夫

 ついさっき、「赤塚不二夫死去」のニュースを知りました。
 赤塚先生のマンガというと、最初に読んだのは「天才バカボン」でした。その後「もーれつア太郎」「レッツラゴン」など、僕の小学生前半はもしかすると、赤塚先生の全盛期といっていいかも知れません。「バカボン」はテレビでも放送されましたし、友達の間でも(ドリフと並んで)大人気でしたが、僕個人としては少年サンデーに連載されていた「レッツラゴン」が印象的でした。「バカボン」とも、後追いで読んだ「おそ松くん」とも違う、一種アナーキーな世界は、僕が初めて経験した「表現による暴力」「表現による自由」だったのかも知れません。今僕の手元に、小学館文庫「赤塚不二夫名作選 レッツラゴン」がありますが、30数年経った今も全く変わらずアナーキーな肌触りです。
 この本のあとがきは、あの武居俊樹氏が書いていますが、そのなかで「赤塚不二夫は、変なオジサン、というのが、普通の人の受けとめ方だと思う。しかし、実態は、ものすごく真面目で常識人だった。赤塚不二夫は、自分でそれを判っていた。だから、その殻を破ろうとして、実人生でも、不思議人間を演じた。演じているうちにどっちが、本当の自分か判らなくなっていくのだが。」と書かれています。こういう文章を読み、いろいろな不思議な行動(高校生のころよく聴いていた「タモリのオールナイト・ニッポン」でもよく話題になっていました)を思い出すにつけ、ある種の感慨を抱きます。赤塚先生が「バカボン」「ア太郎」など大ヒットを飛ばしていた60年代後半から70年代初期は、マンガの週刊連載が定着する時期で、それまで「作家が(その作家性に基づき)描いた作品を媒体として形式化する」という図式から「マンガのタイプ、内容にまで編集者が深く関わり、いわば共同で作品を創り上げる」ようになった時期でもあります。そのころの変化や、その変化のなか起こる「バカボン掲載誌変更事件」などは、まさにマンガが、もはや作家一人だけでは成立せず、(厳しいビジネス現場という形でですが)人間の繋がりのなかで創り上げられるものになったということを教えてくれます。赤塚先生は、そうした時代の中で大ヒット作家として活躍しました。
 武居氏の著作などで読むことが出来る赤塚先生の私生活は、人にあふれ、その人との繋がりや相互に刺激を与え合うことの中から、あの名作群が生まれてきました。でも上に引用したような一種の「あがき」からは、新しい時代のマンガ制作に見事に馴染みながらも、決して消えることのなかった「ペン1本で生き抜く」強烈な個性の芸術家の顔が見えてきます。きっと赤塚先生には、その両方の顔が、どちらもとんでもなく大きな存在感をもって、あったんだと思います。マンガを描くということはもちろん、それを読むということも大きく変化した現在(そして未来)にあっても、赤塚先生の歩んだ道はとても個性的であると同時に、後々まで忘れられることのない、大きな「普遍」なんだと思います。先生の描いた作品と同じように。
 子どものころ、それこそ寝る間も惜しんで読みふけり、腹を抱えて笑った赤塚作品に敬意をこめて、謹んでご冥福をお祈りいたします。