ブルックナーの森に迷う

 「ブルックナーは森だ。その森を歩くような気持ちで聴いている。聴くたびに違う道を行き、違うものを発見できる。」
 これは僕の高校時代の恩師の言葉です。僕の在学中ですからすでに四半世紀以上前(ジョンが殺されたときは高校2年生でした)にすでに50代半ばだったこの先生は、担当教科(国語の先生でした)以外に、僕たちが主催していた「読書会」(毎回1冊の本をテキストにしてあれこれしゃべるという、いかにも図書館周辺の生徒がやりそうな催し)によく顔を出してくれて、いろいろな意味で僕たちを導いてくれました。
 この先生はまた、その道何十年という筋金入りのクラシックファンで、何回かお邪魔したご自宅で溢れんばかりのクラシックLPを見せていたいたこともありました(LPってところがいいでしょ)。グランドピアノが鎮座しているリビングルームで何時間も僕たち生徒の青臭い論議に耳を傾け、時には一緒になって話しをしてくださったこともありました。この先生は大変ベートーヴェンモーツァルトが好きで、ワーグナーなどについては(その反ユダヤ的立場もこみで)「いまだに気持ちが定まらない」と話されるというお立場でした。その先生が何故かブルックナーを好んで聴かれていると知ったときに、僕は思わず「先生がブルックナーを聴かれるなんて意外ですよ」と言ってしまいました。
 その時に先生がお答えになったのが、冒頭の言葉です。その当時僕にとって、ブルックナーはまったく理解できない作曲家で、先生の言葉を聞いても、即物的なイメージはわかっても(ブルックナー交響曲でデカくて長いからいかにも「森」って感じ)その本当の意味などわかりませんでした。それはその後ずっと続きました。クラシックファンとしてそれなりに聴きこんでいったこの20数年ですが、相変わらずブルックナーは「特に好きではない」作曲家でした。
 それが、この1〜2年変わってきました。別になにかきっかけがあったわけではなく、劇的に評価を変えるような演奏を聴いたわけでもないですが、なんとなく、気がつくと聴くようになっていました(一応CDを所有しているところが僕らしいでしょw)。突如開眼したわけでもないので、相変わらずおっかなびっくりという感じですが、それでもなんだか、その音楽を愛せるようになってきました。ブルックナー交響曲はどれも長大で、「ここだけ聴けば十分」という「有名フレーズ」などはない、ある意味で地味なものですが、その長く重い響きの中に、僕なりの楽しみを見つけられそうな様子で聴いています。年取ったせいかな(笑)?僕の恩師のように「森を歩く」という境地にはまったく及ばず、「森の中で迷っている」という感じですが、それすら今は楽しいと感じる程度には聴けるようになってきました。
 最近よく聴くのはセルジュ・チェリビダッケミュンヘンフィルのブルックナー7番。たまたま入手したものですが、これはよかったです。第2楽章は、息をのむような美しさでした。それからこれまた最近、あのタワーレコード(数々の信じられないような復刻盤でクラシックマニアの救世主といわれる)が復刻した朝比奈隆の「ブルックナー交響曲選集」もよく聴いています。1980年に限定LPボックスとして出たものの復刻(そういうものが出ていたことさえ知りませんでした)で、東京カテドラルで録音された、残響の長い音も神々しく(第4番第3楽章のコーダなど、総ての音が溶け合いながらクライマックスに突っ走って行くようです)、秋の夜にじっくり聴くにはいい、暖かい音色の演奏です。
 今年生誕100年でたくさんのCDがリリースされているマエストロ朝比奈は、我が国におけるブルックナー解釈の第一人者でした。僕は中途半端なクラシックファンで(ロックファンがメインなので)朝比奈の業績もブルックナーの価値もまだまだよくわかっていませんが、「森を迷う」ことを楽しみながら、少しずつ先へ進んでいこうと思います。