こうの史代「この世界の片隅に」

 僕はマンガについてはそれほどマニアックに、熱心にフォローしているわけではないので、今注目されている作家が誰であるとか、どんな作品が売れている・評価されているとかいうことには、わりと疎いです。そんな僕でも、さすがにこうの史代の名前は知っていました。あの名作「夕凪の街 桜の国」の作者です。あの作品はもう説明不要、「マンガの歴史に残る」と断言しても差し支えないもので、映画にもなりましたね。もちろん僕も読みました。ストーリーはもちろんですが、全体の構成や一コマ一コマの絵としての美しさや構図まで含めて、まさしく歴史的作品でした。作者の名前はそのとき覚えたんですが、上に書いたようにマンガについて日常的に追っかけないもので、他の作品はずっと未読でした。
 つい1週間ほど前、まったく別の本を買いに出かけた書店で、偶然見かけてしまったのです。「この世界の片隅に」を。やわらかい色彩で描かれた表紙の絵は、昔の台所(釜戸)でしゃがんでこちらを向いて微笑んでいる女性。この表紙の美しさに惹かれて、まず上巻を購入しました。
 で、その翌日には続きである中巻、下巻を買い、文字どおりむさぼるように読みました。とんでもない作品を手にした、そんな気持ちです。
 物語の時代は昭和18年から20年にかけて、舞台は呉と広島。日本人なら、この時期この土地でどんなことが起こったかすぐにわかるでしょう。それが縦軸になってはいます。でもこの作品は、時代と場所から多くの人が連想するようなものとは全く違う角度から、申し分のない物語を、情感豊かに描いています。絵の美しさは言うまでもないですが、登場する人達の表情や言葉も奥行きがあり、コマのひとつひとつが充実していると同時にそれが連なって描写される物語の流れそのものを創り上げていて、まるで音楽のようです。雑誌連載されていたものなので各話ごとにちゃんと「オチ」(?)があり、それが気持ちいいフックになって読み疲れません。全体のムードが明るいのもいいです。
 さて、ここまで書いてきて、なぜ僕がここでストーリーの紹介をしないのかといいますと、要約できないからです。ストーリーがわからないのではないですよ。ストーリーを紹介しても、まったく意味がないからです。主人公はすずさんという女性、広島育ちの彼女は呉に住む男性と夫婦になり、いろんなことがありながら終戦を迎える、平たく言えばこれだけです。
 でも実際に読むと分かりますが、ひとつひとつの言葉や登場人物の動きや互いの関係などが複雑かつ巧妙に配置され、信じられないような輝きを(決して派手ではないですが)放っています。僕は何回も何回も全体を読んだので、そのいくつかは書こうと思えば書けるのですが、ここで書いてしまっては、まだこの作品を読んでいない方にとっては「大きなお世話」どころか「暴力」のようなものでしかありません。あえて例を書きますが、すずさんは下巻のある章で、あるものを失います。それはとても重大なものなのですが、そこを境にして、作品そのものの見た目が変わります。なぜそうなるのか。そして、その失ったあるものは、その後の章で何回か登場するのですが、どのように登場し、何をして、そしてそれが主人公にどのように影響を及ぼすのか、そして物語全体にどのように作用するのか、最終的には読み手である僕たちにとって、なにをもたらすのか。
 本当をいうと、書きたくてたまらないのです。本当に感動的であり、また、作者のマンガ表現の非凡さも、思いっきり絶賛したいのです。でもそれをしたら台無しです。僕が思いがけず手にして、驚きかつ感動したのと同じように、未読のみなさんにも体験していただきたい、またそのようにしてしか、この作品には近づけない。そういう気持ちであえて書きません。というか、そのようにしか薦められないほどの傑作だということです。
 そしてなにより、作者であるこうの史代のまなざしの優しいこと。ちょっとだけネタバレさせていただきますが、下巻の最終章、149ページの最初の2コマにこんな台詞があります。
 「あんた…/よう広島で生きとってくれんさったね」
 この場面このコマには、3人の人間が登場しています。厳密に読めば、この台詞は誰が誰に向かって言ったのかはわかります。でもこの言葉はまるで、そこにいる3人が全員、自分以外の2人に呼びかけているように感じられます。それは昭和21年1月(ここでこの物語は終わります)の広島への言葉にもなり、日本全体への言葉にもなり、そしてそれはまた主人公達のところに戻り、ささやかだけれどかけがえいのない「奇蹟」へと向かっていきます。こうの史代は「夕凪の街 桜の国」でも原爆というテーマを告発や説教という手法を採らずに語り得た非凡な人ですが、「この世界の片隅に」はもしかすると(主観的には間違いなく)「夕凪」を越えた大傑作です。未読のみなさん、ぜひぜひ読んでみてください。
 追記:この作品をきっかけに、こうの作品をどんどん読んでいます。現在「さんさん録」「こっこさん」「街角花だより」まで読みました。どれもよかったです。どれも完結したものですが、なんだか「後日談」もありそうな奥深さで、ぜひ続編が読みたいなあと思わせるものばかりです。特に「さんさん録」参平さんと仙川さんの「恋」(?)の行方はどうなるのか、息子さん夫婦に生まれる2人目の子どもはどんな子か、無愛想だけど憎めない孫娘の乃菜ちゃんはどんなふうに成長するのか(カバーめくったら花嫁姿は見られたから、そこに至るまでね)、ぜひ読みたいなあ。そんな奥深さを感じさせるところも、作者の非凡さだと思います。

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

さんさん録 (1) (ACTION COMICS)

さんさん録 (1) (ACTION COMICS)

さんさん録 (2) (ACTION COMICS)

さんさん録 (2) (ACTION COMICS)