映画「キャディラック・レコード」(ちょい辛口です)

 今日は久しぶりに映画を観てきました。観たのは「キャディラック・レコード」。ビヨンセが出演しているの映画です。ブログ友のbeatle001さんやringoさんがすでにご覧になっていて、いずれも高い評価だったので(beatle001さんのブログはこちらです)「これは観なければ」と思い立ち、恵比寿まで行って参りました。
 映画はあのチェス・レコードの盛衰を描いたもので、実在する人間が実名で登場する「実話をもとにしたフィクション」でした。当然僕のような人間には興味深く観られるものです。で、見終わっての感想ですが。
 面白かったとはいえます。1950年代当時のアメリカ(深南部の農園での様子やシカゴの街並みなど)は見応えはありましたし、音楽もいい(こりゃ当たり前か)。基本的には楽しめました。ただ、少し気になることも少々。
 僕が引っかかったのは、この映画の主人公は誰なんだというところでした。会社オーナーのレナードなのか、ミュージシャンのマディ・ウォーターズなのか、それとも後半に出てくるエタ・ジェイムズなのか?それともその全員なのか?これがけっこう目まぐるしく変わるので、感情移入しにくいままストーリーが進行してしまいます。映画は他にもハウリン・ウルフやリトル・ウォルター、チャック・ベリーなどが出てきて、登場時間に関係なくそれぞれ存在感を放っているので(特にハウリン・ウルフはすごかったです)、その意味で落ち着いていられませんでした。そして主役級の3人(レナード、マディ、エタ)がまた、簡単に感情移入ができないような二面性を持っていて、その意味でもすんなりは見ていられなかったです。
 レナードの人物像についても、「悪どいこともするけれど差別意識のない経営者」なのか「人種差別はしないけれど、結局は搾取する側の人間」なのか不明確であり、また(少なくとも映画の中では)自分の行動を顧みるような様子もなく、葛藤や逡巡というものが不明瞭でした。エイドリアン・ブロディ戦場のピアニストの人ですよね)の演技やそれに付随する演出も「冷徹なビジネスマンが人間的な側面を覗かせている様子」なのか「単に困っている・単に迷っている」のかよくわからないことが多かったです(上手な演技なんですけどね)。映画の後半、オーバードースで倒れたエタを介抱する場面での疑似ラブシーンも、だから僕にはよく飲み込めないものでした(ちょっと余談になりますが、この映画、不必要なベッドシーンが多く、僕はちょっと興ざめしちゃいました)。
 少し余談めきますが、「Dreamgirls」という映画がありました。あれはモータウンレコードとシュープリームスがモデルでしたが、実名での登場を最小限に食い止め、巧みにフィクションを交えることでストーリーを成立させていました。対して「キャディラックレコード」は基本的に実在の人物は実名で登場し、当時の社会背景もそれに準じています。ドラマとしては「キャディラック」の方が重みがあってよかったと思います。しかし、そういうふうにすると逆に、「ノンフィクション部分の矛盾」が目立ってしまい、それが映画全体に対する感想をおかしくしてしまいます。一例を挙げると、ときどき(テレビで)登場するエルヴィス・プレスリーの活動時期と映画の中での時間がずれているような感じ。あるいはチャックの「Sweet Little Sixteen」がビーチボーイズの「Surfin’ USA」に剽窃されたと憤る場面の不整合(映画では剽窃の事実を知ったチャックが激昂しているところに警官がやってきてチャックを逮捕していきますが、実際に「Surfin’ USA」が発表されるのはチャックの服役中です)。ローリング・ストーンズがレコーディングのためにチェスを訪れ、マディに会うシーンはロックファンには印象深いところでしたが、そこも時期が微妙にずれていたような気がします。
 「気がします」って、なんで今日見てきた映画なのにわからないんだよ、と思った方もいらっしゃるかと思いますが、そこにこの映画について、僕が一番「うーん」と思う問題があります。つまり、この映画は「エピソードの集合体」であって、最初から最後まで貫くような「作る側の目線」や「登場人物の成長・変化」が希薄なのです。積み重なっていくエピソードのひとつひとつは面白いし、僕のような音楽ファンにはとても興味深いです。でもそれがだんだん(楽しいものであれ、重いものであれ)「ひとつの結末」に収斂するのではなくて、ただ最後まで続いていくので、憶えているエピソードの順番が厳密にどうであったかを思い出すのが困難なのです(大まかには記憶していますが)。上に書いたストーンズの場面など、実話ベース(映画は1967年のところまで描いて、現代にジャンプします)でいけば映画のずいぶん後半になるはずですが、記憶では中盤だったような気もするし…という感じ。それは登場人物の感情や行動にも表れていて、結局彼らはそれぞれ相手を「どのように思い、どのように受け入れていったか」が通り一遍にしか描かれないので、リアリティ重視の設定にしては「こちらに食い下がってくるような迫力がない」という感じなのです、少なくとも僕には。実在の人を主人公にするのですから、そのへんの舵取りが大変なのはよくわかりますが、それならば名前を変えて「架空の話し」にしてしまってもよかったのではないかな?そのへんの「フィクションに対する踏ん切りの悪さ」が映画の迫力をだいぶ削いでしまったような気がします。
 それからこの映画、女性の描き方がどうも雑で、レナードの奥さんはまったく人格がないし、エタはまるで娼婦のようだし(エタとレナードの初対面のシーンはまるで「女が金で買われた」ような感じですが、実際彼女はすでにヒット曲を持った歌手であり、チェスには「移籍」してきた存在だったはずです。バスルームで歌うのを聴いてビックリするなんてことはありえません)。脇役で登場するファンの女の子達もみんな思慮深くない感じだし、どうもそういうところが気になってしまい、ドラマの重みが(少なくとも僕には)伝わってきませんでした。それともうひとつ、どうしてだか不明ですが、ボ・ディドリーがまったく登場しないのも腑に落ちなかったです(契約の関係かな?くらいは察することができますが)。
 いいところもいっぱいある映画ではありました。アフリカ系アメリカ人の置かれた状況などはきちんとした立場で描いていたし、役者さんたちの演技もよかったです。ウィリー・ディクソンがマディに曲を教えるところ、スタジオでの演奏などもとてもよかったです。役者さんがちゃんと歌ったというところもさすがだなあと感心します。もちろんビヨンセにも感動しました。デスチャには特に感心しなかった僕ですが、やっぱり伊達に世界でトップ張ってませんね。そういういい部分には賞賛は惜しみませんが、しかしというか、だからこそというか、僕にはところどころにある「ほころび」が気になって心から感動はできなかったです。もちろん観て損をしたとは思いません。一見の価値はあります。でも、ドラマとしての深みがあったかというと、うーん、というのが正直なところです。
 追記:ひとつだけ、個人的にとても嬉しかったところをひとつ。マディがスタジオで持っていたギター、ゴールドトップのレスポールでしたね、P-90ピックアップをつけたやつ。レスポールの勉強(?)していたので、ちょっと嬉しかったです。
 もうひとつ追記:「Dreamgirls」でモータウンが描かれ、今回はチェスが描かれたわけですが、さあ、次はどこでしょうね?いよいよ来るかな、アトランティック。これはもう、ラストシーンは「再結成ゼップの演奏シーン」で決まりですね(笑)。ああ、待ち遠しい。