ルー・リードの歌声に音楽の本質を感じる

 今BS-2でヴェルヴェット・アンダーグラウンドの(ウォーホール没後の再結成)ライヴをやっています。ヴェルヴェッツというと、あのバナナのジャケット〜ウォーホール〜ニコ〜SM嗜好みたいな決まり切った認識パターンがあって、一昔までは勘違い紹介文がたくさん流布していたんですが、こうして再結成後の演奏を聴いていると(基本的には現役だったころと同じ内容)全然印象が違い、堂々とした知性派ロックという感じです。これはヴェルヴェッツの向いていた方向にロックの価値観が向かったということの証拠であり、彼らが非凡な存在だったことの証明にもなっています。
 ところで、今回の話題はルー・リードの歌唱力についてです。
 「絶対音階」のある人って、ルーの歌声はどう聞こえるんでしょうね?いつだったか、あるネット掲示板で、「どんな音楽を素晴らしいと思いますか」みたいなトピックがあり、その中にけっこうたくさんの人が「私は音感があるので、音程のとれない歌手、ピッチのずれた演奏は聴いていられないです」「リズム感があるので、リズムがずれた(走った)ものはダメ」のようなことを書いていました。
 僕はこれがとても不思議で、いろいろ考えてしまいました。もちろん言わんとすることは分かります。僕だって音楽を聴きながら「この歌手、下手なんじゃない?」と思う時もあります(もちろん自分のことは棚に上げてですが)。ですが、「音程がずれているから、聴けない(=音楽として高い評価はできない)」というのは、ちょっと違うじゃないかなあ?と。上記のような発言の中で自分の音感を説明するのに「何を聴いてもドレミファで認識できる」と書かれている人が多いんですが、そりゃ「平均律」でしょ、世界中の音楽のどれくらいが平均律とは関係ない調正だと認識しているんだろう?と思ってしまうのです。で、そういう発言を読むたびに思い出すのがルーの歌声であると(ファンのみなさんごめんなさい、貶しているわけではないです。僕は大好きです。コンサートに行ったこともあります)。ルーの歌は、普通の意味では「歌唱力がある」とは言われない種類のものです。上がりきらないし、音程は不安定だし。でもそこに得も言われぬ魅力がある。そしてそれこそ、ルー・リードという天才の奏でる音楽の本質がある。単に音程が合っている「だけ」の歌では足下にも及ばない美しさがあると思うのです。
 リズムに関しても、例えば僕が聴いたことのあるポールのコンサート音源で、1990年6月にリヴァプールで行われたものがありましたが、そこでの「Get Back」は後半どんどんリズムが走っていきます。一般的に考えればミスですが、これもまた実際聴くと、聴く方も一緒に盛り上がるようなごく自然で熱気のある演奏です。それはポールにとって「大成功したツアーの、地元凱旋公演」という背景を考えれば当然ですね。演奏者の気持ちがそのまま出た結果、客観的には間違いかも知れないけれども、聴き手にはその熱や思いが伝わるという、これを名演奏と言わずしてなんというんでしょう?
 上記の発言をした人達がルーの歌声やポールの「Get Back思わず走っちゃったバージョン」を聴いたときに、「音程のずれ」「リズムのずれ」にしか気づかず、それで終わってしまうんだとすれば、それは結局「音楽を聴く耳を持っていない」のではないかと思っちゃうんですよ。繰り返しますが、音感が良いこと、リズム感がいいことはすごいことだと思います。僕はどちらも怪しいので、他人様に言えるほどそうした能力がある人は「すごいなあ」とは思います。でも音楽の本質はそうした「正しさ」だけでは捉えられないと思うのです。今夜聴いているルーの歌声は、そうしたことを僕に再認識させてくれます。美声じゃない、音程も不安定、でも聴く人の胸に届く歌声。ルーの歌を聴いて感動できる幸せは、単なる「優れた音感」では交換には見合わないと、僕は思います。

White Light White Heat

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