ニルヴァーナ「Live At Redding」を聴いて思う

 音楽を聴くとことは、何を得て、何を思うことなんだろう?もっというと、音楽を「ただ、今鳴っている音楽だけ」受け入れ、他の総ては「よけいなもの」として排除するべきなんだろうか?ここ数日、ニルヴァーナの「Live At Redding」を聴きながら、そんなことを考えています。
 「Live At Redding」は文字通り、1992年の8月にレディング・フェスに出演したときの実況録音盤。ワンステージ丸ごと収録といっていいもので(初回盤付録のDVDの内容はMCも含めて完全版のようです)、これはもうファンには待望のリリースです。実際に聴くと、リズムはタイトだしカートのボーカルも力強いし(「Smells like Teenage Spirit」のギターは出だしで思いっきりハズシますが)、一流のパフォーマンスだと断言できます。臨場感もすごいんですよ。ラストではデイヴがドラムを破壊し、カートがヨレヨレの「星条旗よ永遠なれ」を披露します。ロックファンならこれを聴けば誰でも興奮できる、そんな感じです。
 でも僕は、この演奏が見事であればあるほどある種の感慨を抱かずにいられません。言うまでもないですが、ここにいるのがニルヴァーナであり、カート・コバーンであるという事実が、想像以上に重いのです。もちろん収録当時の彼らには2年後に訪れる悲劇は関係ありません。ここにいるのはたくさんのプレッシャーを受けながらも見事にパフォームする一流バンドです。でもやっぱり、僕はそこにある「意味」を読み取ってしまう。言い換えれば、ニルヴァーナには、ただ鳴っている音楽だけを楽しむのではなく、その背景や、ロック史に残した大きな足跡や影響を抜きに考えることができない、そんな感じなのです。素人評論家じみた悪い鑑賞法見本のようですが、例えば「ジョンの魂」やピストルズの「勝手にしやがれ」がそうであるように、ニルヴァーナにも、なにか聴き手に対してある種の「決心」を促している気がします。そしてそこにさらに、カートの悲劇的な最期という重しがくくりつけられているような感じなのです。
 DVDにはCDではカットされているMCなどが収録されていますが、「All Apologies」前の「マスコミがコートニーの事を悪く書いているので、嫌っている人もいるだろう。このコンサートは記録されているので、みんな声を合わせてこう叫んでくれ『愛しているよ、コートニー!』」なんて言葉を聞いていると、本当に僕はあの2人にジョンとヨーコを重ねてしまい、平静ではいられなくなってしまいます。繰り返しますが演奏はすごいです。文句のつけようがない。でも僕はこれを、「楽しむ」というよりももっと厳粛な気持ちで聴き、観てしまいます。
 ニルヴァーナがいてくれたおかげでロックは90年代も生き残れた、僕は本気でそう思います。彼らを襲った悲劇も含めて、ロックが前進するための糧になったと思うことは、表現に対するある種の畏れを感じます。彼らの姿を見ることは、その音楽を聴くことは(特に今回のような見事なステージなど)、そのことを思い出させます。
 僕はカートの最期は本当の悲劇であり、美化することなどできないものだと思っています。このDVDの中で、クリスとデイヴがアドリブで「Smoke On The Water」のリフを弾くシーンがあります。また、コンサートの冒頭では、カートは車イスに乗って、重症患者という設定で登場します。こうした「余裕」を、いつまでも持ってもらいたかった。「In Utero」は今聴くととんでもない名作ですが、あのアルバムが(結果的に)ラストアルバムになってしまったことが本当に悔しいと思います。僕が「Live At Redding」を聴いて音楽だけに集中できないのは、詰まるところそういう「悔しさ」があるからかも知れません。

ライヴ・アット・レディング(DVD付)(紙ジャケット仕様)(初回限定生産)

ライヴ・アット・レディング(DVD付)(紙ジャケット仕様)(初回限定生産)

 追記:でもそうはいっても、聴くと燃えることも事実ですよ。「Stay Away」なんて、イントロからもう燃えっぱなし、それくらい素晴らしい疾走感だし、見事な演奏です。