今日は普通に過ごしました。

 今日は仕事でした。連休真っ最中だったせいか特に忙しくもなく、わりとゆったり仕事をこなすことができました。本当は今日から妻とドレミは妻の実家に帰り、僕は明日合流の予定だったのですが、昨日遊びに出かけ、晴れた野外で長時間過ごしたのが悪かったのか熱を出してしまい、中止になってしまいました。そのかわり義母が明日僕の家に来てくれるそうです(ちょっとは部屋片付けなきゃ)。
 僕は忌野清志郎さんが亡くなったあとに出た作品をほとんど入手していません。先日出た「Baby#1」も「青山ロックン・ロール・ショー」も、再版された書籍も買っていません(唯一買ったのがロッキング・オン別冊だけ)。別になにかポリシーや決意があるわけではありません。この1年特に「清志郎さん断ち」(?)したこともなく、折に触れて聴いてはいました。でもなんだか、手が出ないんです。どの作品も書籍も、清志郎さんに対する敬意と弔意がこめられている、その気持ちが、なんというか、まだ受け入れきれないのです。自分のブログに追悼文書いた人間のセリフじゃないですよね。でも正直に気持ちです。日常的に悲しんだり涙を流した時期は過ぎました。僕も大人ですからこの1年笑ったり楽しんだり感動したり、いろいろなことに心動かされてきました。でもなんだか、今日という日を迎えたら、そういう気持ちが起き上がってきてしまいました。今日の通勤用iPodにはRCや清志郎さんの曲をありったけ詰め込んで出かけました。完全復活祭ライヴももちろん入っています。でも結局数曲しか聴けませんでした。特別な「これ」という理由は思い当たらないですが、とにかく聴き続けていられなくなってしまったんです。
 今日は帰りにCDショップに行きました。まだ買っていなかった「完全復活祭」のDVDを目当てに。でも結局、迷ったあげくに買わずに帰ってきました(替わりにフライング・ロータスの「Comogramma」買いました)。買わない理由なんてない。素晴らしい内容だということはよく知っています。CDはもう持っているし、なによりも僕はその場にいたんですから。でも買わなかった。結局僕は、今日という特別な日に、「なにもなかったふり」をしたかったのかも知れません。いい歳こいた大人のすることではないですね。でも正直な気持ちです。今もこれを書きながら、清志郎さんとはまったく関係のない曲を流しています(モーツアルトハイドンセット、演奏はジュリアード)。5月2日が終わるまであと30分。もう少し、なにも気づかなかったふりをしていましょう。日本中にいるファンのみなさん各々に、それぞれの「今日」があるように、僕のそれは「普通に過ごすこと」のようです。