糸川英夫のライナーノーツ

 もう24時間前の話題になりますが、ついにあのはやぶさが地球に戻ってきましたね。様々なトラブルに見舞われ、一時は行方不明だったなんて信じられません。僕は数年前に、ちょっとした偶然から日本を代表する大学の学生さんとメールの交換をする機会がありました。宇宙開発の研究をしている若い研究者である彼は僕が「大阪万博で月の石を見た」と書いたことに答えて「とてもうらやましいです。今の僕ははやぶさが持ち帰ってくれるイトカワの砂が待ち遠しいですね」というメッセージをくれました。その彼が、いや、世界中のたくさんの研究者や学生、天文ファンが待ち望んだことが、ついに起こったわけです。
 それにしても昨晩から今日にかけては本当に大きく報道されていましたね。記憶では出発したときも、イトカワに着陸したときもこんなに大騒ぎではなかったのに。「満身創痍」と表現していたメディアもありましたが、苦難を乗り越え地球に帰り、自らは大気圏で燃え尽きてしまうという「最期」は、日本人の琴線に触れるものなのかも知れないですね。日本経済新聞は第一面に「はやぶさ帰還」と大きな見出しをつけていましたが、「帰還」ということばもこの場合はオーバーとは思えないです。僕がいうまでもないですが、これは世界的にみても宇宙開発の歴史から見ても大快挙なんですから、この「大騒ぎ」はもしかすると、この偉業にしては控えめなのかも知れません。
 唐突に音楽の話しになりますが、今僕の手元に1枚のCDがあります。タイトルは「宇宙幻想」アーチストはあの冨田勲。リリースは1977年。あの名作「惑星」に続くアルバムです。「惑星」までのトミタ作品は、基本的にある作曲家の作品を特集したものでしたが(一部例外あり)、この「宇宙幻想」は、冨田の案による抽象的な筋に沿って、いろいろな時代のいろいろな楽曲を並べた一種の「組曲」アルバムです。「ツァラトストラはかく語りき」「タンホイザー」「ソルヴェーグの歌」「アランフェス協奏曲」などの有名曲に混じって「パシフィック231」(オネゲル)、「答えのない質問」(アイヴス)などが収録されています。面白いところではあの「スター・ウォーズ」が、予想を裏切るアレンジで登場したりしています。個人的にはアルバムの最後に「ソラリスの海」というタイトルで収められたバッハ作品がよかったです(3曲のうち1曲はあのタルコフスキー監督の「惑星ソラリス」で使用された「主イエス・キリストよ、我汝に呼ばわる」)。あまり話題にならないアルバムですが、実はトミタのシンセサイザー作品の中では屈指の名作です。
 このアルバムの解説を、なんとあの糸川英夫先生が書いているのです。もちろん内容は冨田の音楽を褒め称えているものですが、文章中では戦争中に「隼」を設計したこと、戦後航空宇宙に関する研究が禁止されていたとき、音響工学を研究していたと書かれていました。そのときのテーマが「名器ストラディヴァリウスの秘密」を解き明かすというものだったこと、「多数のオシレーターで、多数の余弦波、正弦波をつくり、その長さ、周波数、振幅、位相を調節することによって、ストラディヴァリウスの音を『まったく物理的に合成』出来るのではないか」と様々な試行錯誤をされたことが綴られていました(解説文では『合成』の語に「シンセサイズ」とルビがふられています)。その試みは成功せず、やがて航空分野での研究禁止が解けるとともに宇宙ロケット研究を始めたことも書かれていました。
 なんだかものすごく貴重なことが簡潔に、わかりやすく書かれています。僕は軍事的なものに対する知識がまったくない人間なのですが、糸川英夫が「隼」を設計したということだけは、この文章のおかげでずっと以前から知っていました。文章全体も読みやすく、糸川先生の知性、知識の幅広さがよくわかるものです。いわゆる「音楽系文筆家」ではないことがかえってトミタ作品のような「ジャンルに安住しない」作品に相応しい名文を生んだと思います。
 カプセルも無事に回収され、7年もかかったこの偉業もすべて完了です。「はやぶさ」の名は不朽のものになりました。僕にとってその名は、惑星「イトカワ」の名と共に、片隅に美しい音楽の流れる、思い出深いものになりそうです。
 おかえりなさいはやぶさ、長旅お疲れさまでした。

宇宙幻想

宇宙幻想