久しぶりに春樹を読み、ジョン・セバスチャンを聴く

 今日は娘のドレミの5歳の誕生日。プレゼントを買いに行ったりケーキを食べたり、それなりに楽しく慌ただしく過ごしました。5歳にもなると言葉によるコミュニケーションもスムーズになり、プレゼント選びも今までの「娘の欲しいものを親が選択する」という感じから「会話をして決める」というふうになってきました。まあ、ドレミにしてみればなんにせよプレゼントがもらえるわけですから文句ないでしょうけどね(笑)。
 少し前の日記で「ノルウェイの森」のことを書きました。そこに「春樹作品をもうずっと読んでいない」と書きました。実は某SNSでも同じようなことを日記に書いたんですが、そこに長年のリアル友人で筋金入りの春樹ファンから「じゃあ久しぶりに読んでごらんよ。取りあえず文春文庫の新刊などどう?」とコメントをもらいました。その友人はランナーでフルマラソンまで出場するほどの人で、推薦してもらったのがちょうど文庫になった「走ることについて語るときに僕の語ること」。
 で、早速買って読みました、というか、読んでいる最中。第2章まで読み終わり、第3章にさしかかったところにいます。基本的には作者が「走る」ということを語りながら、作者自身のこと(小説家になったいきさつや自身のものの考え方)を語っていくという感じの随筆集でした。久しぶりに読むので最初の方は少し戸惑った部分もありましたが、そのうち慣れてきて、今はすいすい読み進んでいる感じです。なんだかんだいっても数年間はそれなりに熱心に読んだ作家ですからね、馴染むのも早いです。
 で、この本の第1章にラヴィン・スプーンフルを聴きながら走るという話しが出てきて、こんな言葉が書かれています。
 「ラヴィン・スプーンフルの音楽はいつ聴いても素敵だ。必要以上に自分を大きく見せようとしない音楽だ」
 僕はこの文を読んでフムフムとうなずきながらも、この人の音楽センスが僕と少しずれているのも感じます。これはこの人が音楽について書いているものを読むたびに感じるもので、「村上ソングズ」にも感じたんですが、この人が無意識のうちに述べている「現在」というものへの蔑視、そんなものを嗅ぎとってしまうのです。これは僕が現役ロックファンだから感じることかも知れません。「必要以上に自分を大きく見せようとしない音楽」という言葉の裏にある「必要以上に自分を大きく見せようと」する音楽(そんな音楽、どこにあった?)への軽蔑。実際にラヴィン・スプーンフルの音楽はとても美しくスイートで、アメリカの伝統的ポピュラー音楽などに対する愛情に満ちていますが、彼らがなにか特別なアティテュードをもって音楽を奏でたわけではなく、彼らのような音楽家はたくさんいたわけです。僕はそうしたことに(音楽ファンとして)気づくわけですが、熱心なポップスファンでない村上春樹ファンは、そのままそういうふうに受け取ってしまい、結局お決まりの「ポップスやロックが輝いていた時代は過ぎてしまった」というところに落ち着いてしまいます。
 村上春樹自身はちゃんとした音楽愛好家だと思いますし、決してケチをつけようと思ってこれを書いているわけではないんですが、ミック・ジャガーがかつて「45歳になって『サティスファクション』をまだ歌っているようなら、死んだ方がましだ」と発言しながら現在60代でもそうしていることを、自身の若い頃を引き合いに出して「僕には笑えない」と書くような人が、婉曲表現ではありますが、(この場合はラヴィン・スプーンフルの音楽を使って)そのころあった、そして現在もたくさん存在する音楽・音楽家の努力や成果について印象操作することに違和感を覚えます。昔からラヴィン・スプーンフルは好きだった、当時から時代の流行とは少し違うものだったけれど、それだからこそ今聴いてもその価値は揺るがない、そういうふうに書いたらよかったのに。世界的な作家に対して実に不遜な文章ですみません。でも僕の言いたいこと、わかっていただけるでしょうか?もちろん僕はラヴィン・スプーンフルの音楽、大好きだしジョン・セバスチャンの音楽も大好きなんですけどね、上記のように褒めてもらっても嬉しくないです。
 上記のように「必要以上に自分を大きくみせようとしない」というのなら、僕はむしろラヴィン・スプーンフルよりもグループ解散後のジョン・セバスチャンの方にそれを強く感じます。最近はもうすっかり「アメリカ伝統音楽」フィールドに行ったきりの彼ですが、70年代、それなりにポップスシーン現役だったころの音楽にも、それを感じます。僕が初めて聴いた彼の歌声は、あのウッドストック3枚組LPの冒頭にある「I Had A Dream」でした。それはギター1本で歌われる、それはそれは美しい音楽でしたが、その後かなりたって聴いた同曲のスタジオバージョンは、エコーたっぷりのハープが宙を舞う、それこそ夢かと思うほどロマンチックなものでした。それだけ聴いていれば確かに同時代の音楽からはかけ離れたものですが、歌詞には「僕は昨晩それは美しい夢を見た、でもその夢のことを話すとみんな笑うんだ」という、どちらかといえば苦い、それもトーチソング的な苦さではなく、はっきりとロック世代の苦さを持ています。
 確かに彼は自分を大きく見せようなどとは思っていなかったでしょう。ライヴ盤などで聴けるとてもアットホームなムードもそれを物語っています。でもそうした姿勢や音楽の肌触りは、決して自分の生きた時代から背を向けたものではない、むしろそうした時代から生まれてきたものだと思います。だからこそ共感をもって受け入れられたんだし、今聴いても美しいのだと、僕は思っています。
 とても幸いなことに、ラヴィン・スプーンフルジョン・セバスチャンも、輸入盤まで含めればそれなりに今も入手可能です。どちらも、実はけっこう夏向きのテイストをもった音楽ですし、なにしろ質が高く美しいので、機会があったらぜひ聴いてみてください。どちらの音楽からも、なにかを低く見ることで自分たちを高く見せようなどと意図しない、本当の美しさを感じるはずです。

Do You Believe in Magic

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ザ・ベスト・オブ・ジョン・セバスチャン

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