偶然?奇跡?真夏の夜のショパン

 遠藤郁子さんというピアニストをご存知でしょうか?僕はつい最近までほとんど知りませんでした。あるクラシック系の書籍で紹介されていたのを読んだんですが、それがなかなかユニーク。一流の経歴を持ちながら大病を患い、そのとき経験した一種の「臨死体験」を境に活動内容を大きく変え、現在は病院や各種施設などでの演奏を中心にしているそうです。オウム真理教サリン散布で意識不明だった方がこの人のピアノを聞いて反応を示したという逸話があるほどで、ごく普通の意味での音楽家・ピアニストというカテゴリからははみ出したような感じの人です。一部では「奇跡のピアニスト」「癒しのピアニスト」と言われているということで、そういうキャッチフレーズにはあまり惹かれない僕ですが、ちょっと興味を持ち、1枚入手してみました。タイトルは「ショパン序破急幻」(「じょはきゅうげん」と読みます)。
 タイトルは能から来ていますね。ジャケットのデザインはタイトルに準拠しています。曲はショパンノクターンとバラードからのセレクト。それぞれの曲にはまるでサブタイトルのように能の題がついています(例えば1曲目のノクターン第5番には「一番能『高砂』」という具合)。収録された音源自体にはピアノ以外の音はなく、その意味では普通のショパン作品集ですが、ブックレットにはそれぞれサブタイトル(?)の能についての「解説」も記載されています。
 演奏は非常に個性的。聴くとわかりますが演奏者の主観が大きくものをいった演奏。それは実に「没入」という言葉がピッタリくるような、真摯でどこか不気味なほど「のめりこんだ」音楽でした。聴き馴染みのある曲ばかりなのに、なんだか初めて聴いたような表情のショパン。奇跡なのか癒しなのか、僕にはまだわかりませんが、とにかく強烈に惹かれる演奏ではありました。僕は元来オカルティックなものには信を置かない人間ですし、「癒し」なんて言われても困っちゃうという感性の持ち主なんですが、不思議にこの演奏には引きこまれてしまいまして、実は入手してからずっと、1日に1回は聴いてしまうのです。
 ところで僕がこの人の名前を意識するようになった書籍は松本大輔著の「やっぱりクラシックは死なない!」(青弓社刊)でした(余談ですがこの本は面白かったです)。その本の中で松本氏はこの人の「ノクターン集」についてこんなことを書いています「演奏は呪術的で興味深いものだが、かけるたびに身の周りで超常現象が起きるので封印してしまった。いまは棚の隅にしまってある」。これを読んだときはギョッとはしましたが、まさかそんなことはないだろう、なにかの偶然だよ。そう思っていました。なにしろそういうこと、信じない性分ですから(1年ほど前にUFO観たんですが、自分で観たのに信じないほどです)。実際入手した「序破急幻」聴いていても、演奏にこそゾクゾクはするんですがなにも起こらなかったし。
 ところが一昨晩、コピの散歩のために夜外出したときのことです。僕は散歩しながらiPodで音楽を聴いているんですが、ふと気が向いて「序破急幻」を聴き始めました。猛暑の夜、誰もいない住宅地の道を歩きながら聞くこの演奏は、確かに気持ちに入り込んではきましたが、特に何かが起こったり見えたりはしませんでした。が。
 散歩の後半、もうすぐ家に着くというあたりで街灯がちょっと途切れる箇所があります。ちょうど地元の小学校の高い石積みの擁壁沿いの道で、何十メートルか暗めになっています。僕は男ですから特に危険も感じずにいつも歩いていたし、このときもふつうに歩いていました。
 そのとき、コピが僕の後ろでさかんにリードを引っぱります。トイレかな?と思って確かめると、僕たちが来た方向に頭を向けてじっと中空を見ています。イヌってときどきそういうことをしますから気にせず歩き出したのですが、この時は何回も何回も同じように後ろを向き、なにかをじっと見ています。道の真ん中くらいに至ったとき(そこが一番暗い)、またもやコピが後ろを向き、今度は急に一声「ワン!」と吠えました(ふだんコピは滅多なことでは家の外では吠えないのです)。で、吠えた瞬間ザァッと一陣の熱風が。
 起こったことはそれだけです。風が通りすぎたあとはコピも落ち着き、その後は一度も振り返ることなく普通に歩いてくれました。明るいところに出たらもうそこは見慣れた近所の道で、そばの公園には(同じくイヌの散歩中の)人影も見えました。
 結局のところ総括してしまえば、「風が吹いた」というだけのこです。なんですが、上記の暗い夜道を歩いていた数分だけなにか雰囲気が違いました。耳の中ではずっと「序破急幻」が流れていて、そしてコピの様子も変だった…。さてこれはなんだったんでしょう?ただの偶然?考えすぎ?それとも松本氏の書いていた「超常現象」の一種?つまり、この人の演奏が何かを運んできた?
 答えはありません。追求しようとも思いません。でも相変わらずこのCDはずっと聴き続けています。実は今もこれを書きながら聴いているのです。さて、今夜、僕の身になにか起こるんでしょうか?ちなみに同じ部屋の中、コピはもうイビキかいてますが(苦笑)。

ショパン序破急幻

ショパン序破急幻