ミュージアム閉館に際して、ヨーコについて書いてみる

 今日は9月最終日。
 結局行きませんでした。ジョン・レノンミュージアム
 たまたま今日行かなかったということではないのです。僕はこのミュージアムに、開館以来1回も足を運ばなかったんです。さいたまスーパーアリーナまでは数回行っていたのに。
 なぜ行かなかったんだろう?僕はジョンのファンだったのに。この施設ができる前に何回かあったジョンの回顧展には仕事を休んでまで行ったというのに。
 この施設については、熱心なファンの方何人かから(実際に行かれた方もいらっしゃいました)、やや否定的な感想を伺ったことがありました。感想の内容は概ね同じで、ジョンのイメージが固定的で押し付けがましいというものでした。それにはなんとなく僕も理解できます。今となってはそういう情報があって僕は行かなかったのかな?と思います。
 でですね、僕にそういう感想を語ってくれた方はみなさん僕以上に熱心なビートルズジョン・レノンのファンなんですが、みなさんヨーコには少し違った感情をお持ちだったんですよね。まあ要するに、「ヨーコは好きじゃない」と。
 僕は(意外かも知れませんが)ヨーコについて一定の評価をしています。音楽の才能が大きかったかというと言葉を濁してしまいがちですが(苦笑)、少なくとも彼女の活動には不思議な「違和感」があり、そこに僕は惹かれるのです。
 「Double Fantasy」「Milk And Honey」みなさんも好きですよね。そしてこのアルバムを「ジョンの曲だけ聴く」という人は僕の回りでも多いです。でも僕はそれは一度やってみて「これじゃあ作品を聴いていることにならない」と感じて、それ以来やっていません。「(Just Like)Starting Over」の次には「Kiss Kiss Kiss」が来るし、「Woman」の次には「Beautiful Boys」が来ます。「過大な期待や虚像には耐えられない」(I Don't Wanna Face It)と歌うジョンのあとに「愛する事を恐れないで。思いを語る事を恐れないで」と歌うヨーコの声に慰められます。いやいや、本当に。
 もちろん僕もヨーコの活動すべてを知ったり評価したりしているわけではありません。彼女がジョンについて語るのを聴いたり、ええっと、もうちょっと具体的に書きますと「Woman」のクリップでの目立ち方(笑)とかを見ると、正直困っちゃうこともあります(婉曲表現ということでひとつw)。でも僕は、そういう部分を超えて彼女には何かがあると、そしてそれは簡単に理解したり判断したりはできない大きさや深さを持っていると感じるのです。僕はもう20年くらい前ですが、草月会館での彼女の個展を観に行きました。そこにはあの有名な「はしごを上って虫眼鏡で覗くと天井に小さくYesと書いてある」作品もありましたが、それ以外の作品もみんな、ちょっとどきりとするほど無防備に自分の内面を受け手に提示するようなもので、音楽ファンがたまさかに観てあれこれ言えるようなレベルではないと強く感じたことを憶えています。
 なぜヨーコはあれほどネガティブな言葉で語られるのだろうか?僕には半分理解できて半分は理解できない、そんな感じです。上に書いたように、僕の周りでもヨーコについて批判的な人は多いです。そういう方の多くは人格品性ともに僕なんかより上だし、音楽や芸術に対する趣味もいいです。そういう方が感じていることについて、僕も「うんうん」と共感する部分も多いです。それでも僕はそれをもって彼女を断ずることはできない。それはたぶん、彼女がなにをやっても必ず「自分であること」を止めない、その危うさや崇高さを感じるからだと思います。
 ヨーコのある著作にこんな文章がありました。「空の美しさにかなうアートなんてあるのだろうか。私はただ私でありたい、と思って暮らしてきただけだ。その私であると云うことが、そんなに怒りを受けるのだったら、人間社会は恐いと、思う。....自分では、自分のいい子ぶりにウンザリしている位で、片親をなくしたショーンの為に、と思って、万事低姿勢で自重しているわけだが、本当は世界にむかって、バカヤローと叫びたいのが本音だ」僕はこの文章に深く感動します。本当に純粋な言葉であると思います。ジョンの「取り扱い」についてはもうちょっと考え直してほしい部分もありますが(笑)、引用した言葉を読んでもわかるとおり、彼女もまた一人の「大きな存在」だと思います。
 ミュージアム閉館に際しての文章として適当かは不安ですが、この機会にヨーコのことを書いてみようと思い立ち、書いてみました。ひとりの人間をどのように考え、捉えるか、実は非常に難しいことだということを、ヨーコについて考えるなかで実感しました。彼女については、いつかまたきちんと書いてみたいと思います。