4年目の3.11に

 東日本大震災から4年。いろいろな思いを抱きつつ、今日も黙祷させていただきました。
 あの日、どこにいてなにをしていましたか?我が家は今も折にふれてそのことを話します。当時5歳だった娘もよく憶えていているそうです。
 娘が通う学童保育の指導員さんが話してくれました。「震災後、防災訓練・避難訓練での子どもたちの態度が変わりました。それまではふざけたり笑っていた子どもたちが、今は全員真剣。何も指示していなくても、自発的に上級生が下級生の手を取り、点呼し合って避難するようになりました。」娘に訊いても、同じような答え。
 それでも時間は流れていきます。
 今年度の新入生あたりから、震災の記憶が不鮮明になっていて、「知らない・憶えていない」という子も多くなっているそうです。
泣きながら保育園を出て避難所である小学校体育館に向かい、夕方お祖母ちゃんに迎えられて帰宅した後は長時間停電に遭い、パパは夜遅くの帰宅でママは帰宅しなかった娘にとって、震災は今も記憶に鮮明です。でも遠からず、震災のことを「知らない」子どもが在校生の大半を占める日が来るのでしょう。
 忘れない。
 上記「程度」の被災しかしなかった、東北から遠くに住む僕達にとって、あの日のことは、時として「忘れられがち」です。僕は「忘れていないほう」だと自負していますが、それでもきっと、自分でも気づかないうちに「風化」しているに違いありません。
でも今はまだ鮮明に思い出せる。職場が大きく揺れたこと。隣接する大きなショッピングビルの電気が消えたこと。職場のボロテレビが伝える被害状況・交通情報をワープロ打ちして、近隣のテナントさんに配ったこと(テレビがあるのがうちの職場だけだったのよ)、「明日(3月12日)もオープンしますが、交通事情により遅れるかも知れません」という貼り紙をしたこと(無事に定時オープンできました)。スーツに革靴、厚手のコートで2時間近く徒歩帰宅したこと。家に着いたらドレミとコピに抱きつかれてしばらく身動きが取れなかったこと。翌日は朝5時に起床し、9時の職場オープンのために6時に家を出たこと(予想どおり交通はメチャクチャで、2時間以上かかりました)。妻は災害動員のため土曜日の帰宅も昼すぎだったこと。そしてそれからの数日、数週間、数ヶ月…。
 いろいろなことが未解決です。でも今ここでそれを言葉にするのは止めましょう。僕程度の市井の人間だってなにかの一翼を担っているはずです。だからそれに全力で取り組むことで「未解決」を(本当に少しでも)減らしていく、そう心に誓います。
 今日は畠山美由紀の「わが美しい故郷よ」を聴きました。気仙沼出身である彼女が、震災と故郷に思いを馳せて作った名作。2012年以来恒例になった音楽鑑賞です。CDでもハイレゾでも持っているものですが、これ、アナログが出ないかなあっていつも思っています。以前も書きましたが、あのジャケットを、「わが美しき故郷よ」の朗読バージョン(の詩)が印刷された美しいブックレットを、アナログサイズで持っていたいなあと思っています。気仙沼だけでなく、あの日さまざまな被害を被ったみんながまた心からの笑顔を取り戻したとき、そのアナログを抱きしめたいと願っています。そしてその日がもうすぐそこに来ていることを、心から願っています。

わが美しき故郷よ

わが美しき故郷よ